What’s “GOZE”

親しく瞽女さんと呼ばれ、三味線を奏で語り物などを唄いながら、各地を門付けして歩く「盲目の女旅芸人」のことです。幼い頃から親方と呼ばれる師匠に預けられ、瞽女として生きてゆくために厳しく芸を仕込まれました。

瞽女が訪れた村にとっては、その日はハレの日です。彼女たちが持ち込む芸によって日々の疲れを癒し、やすらぎと娯楽を得ました。瞽女たちは、期待し待ち望んでいる村人たちのために、視力の残った手引きを先頭に、3~4人が一組となって師匠から弟子の順に前の人の肩の荷に左手を触れて動きを知り、右手に持った杖で足元を確認して歩きました。目の見えない女性が峠を越え、谷川の一本橋を渡り、この村にまで来てくれたのは、神のご加護によるものという畏敬の念で迎えられました。

庄屋は、宿を提供し村人をあつめて瞽女唄を聞かせます。瞽女たちは力いっぱい演じました。村人たちもお初穂を差し、わずかなおひねりを布施としました。お互いに自分が持っている気持ちが通った豊かなひとときをつくりだしました。

瞽女たちが聞かせてくれる三味線芸は、物語性のある古浄瑠璃などの段物を中心に、流行り歌、民謡などです。そのほか都会の出来事や地震災害などを読み込んだ口説き節で遠く離れた地方の動きを知りました。この主役になったのが瞽女たちです。

彼女たちは、雪原を行き峠を越えるつらい旅を杖を頼りにつづけても、村人の喜んでもらえる芸を披露することに生きがいを見出していました。そこに、瞽女という独特な芸能が生まれ独自の文化を形成しました。幼い時から師匠の下で、厳しく三味線芸の修行を続け、独自の掟としきたりの中で,強固な絆で結ばれ、世間の差別・偏見に対して身を寄せ合いながら盲目という障害を克服して生きてきました。

江戸時代まで全国各地に瞽女が存在したといわれ、瞽女たちの手によって津軽三味線の素地が伝えられ、信濃追分の馬子唄が順次伝播されて江差や松前追分に転化するなど民謡の伝播者としても大きな役割を残しました。明治期に越後・新潟にだけ残り長岡地区と上越高田地区の二つの集団が生まれました。
長岡地区には小林ハル 1900年(明治33年)~2005年(平成17年)高田地区には杉本キクイ1898年(明治31年)~1983年(昭和58年)が代表とされ、富山、長野、関東一円から福島、山形の各地を巡って旅の仕事を続けていました。両者とも国の無形文化財保持者として選択され、黄綬褒章を受けています。瞽女は女性だけの禁欲の世界です。しかし旅する中で、喜びがあり、愛があり、恋が生まれます。冷たい雪に身を埋めても燃える心を鎮めることのできない人間としての葛藤もあります。

画家、斎藤真一は油彩画に、作家、水上勉は文芸作品に、そして映画や舞台で瞽女の終末の美が描かれ、一大ブームとなりましたが昭和50年代に入ると近代化の波の中で瞽女は感傷の彼方に消えました。

しかし今、視覚障害者が担ってきた伝統文化を顕彰しようという動きが静かに起こり改めて瞽女の存在が注目されています。瞽女唄を受け継いだ健常者による演奏会、瞽女の足跡をたどるツアー。そして雪の下での瞽女宿体験など各地で瞽女関連のイベントが開催されその都度大勢の人たちが集まり、往時をしのんでいます。